公務員を辞めた女の小話と末路を見てほしいよ~

二年で公務員を辞めた女の日記代わりのブログです。どうでも良い話からポエム的な長文まで載っています。知ってる人が見たら特定できるけど、特定できるほどの知り合いは片手で足りるので心配していません。

自分

最近はメンタル不安定ですぐ泣いてしまいます。

 

公務員だったとき、自分はなんのために仕事をしているんだろう?どうしてこんなに毎日変わらない日々を過ごしているんだろう?と思っていました。

公務員を辞めたとき、自分にはやりたいことがたくさんある、自分は変わっていて面白いからきっとなんとかなると思っていました。

 

公務員を辞めて1年2か月経った今、結局やっていることはバイト漬けで家に帰ればスマホをして風呂入って寝るだけの生活。

自分はこんなことをするために公務員を辞めたのか?

 

母親に、あなたのやりたいことは応援するから頑張ってと言われるけれども、自分はなにか明確にやりたいことがあるわけでもなく、ただなんとなく中途半端に好きなことをして中途半端にお金を稼いで中途半端な人生を送っているだけ。だから泣いてしまう。

 

昔から中途半端だ。部活では地区大会でベスト8に入って満足して県大会では初戦負けが当たり前だと割り切っていた。高校時代は好きな科目で90点を取れれば満足して100点は結局取れなかった。大学時代は悪くはないけど特別すごいわけでもない成績で満足し、公務員試験では第一志望は落ちて併願の一か所受かって満足。そして今はたまの旅行で楽しんで週3回のバイトを3つしている。どこもすぐに辞めそうだ。好きなスポーツや漫画も本当に好きな人に比べたら全然知らない。

 

仕事も趣味も勉強もスポーツも何もかも中途半端な人間。

自分は人と変わっていると思っていた。

みんなが茶髪にしても私は地毛だ。

みんなが韓流にはまっても私はお笑いが好きだ。

みんなが周りの人の悪口を言っても私は言わない。

みんなが電車で行くところも私は徒歩で行く。

 

でも、きっとみんなが黒髪にしたら私は茶髪にするしみんながお笑いに夢中なら私は韓流にはまる。みんなが悪口を言わない人間だったら私は言うのかもしれないしみんなが徒歩で移動していれば私はそれを馬鹿にしながら電車で移動する。

 

私は周りの人に影響されずに自分の好きなことをして生きていると思っていたけれども、ただ周りの人と違うことをあえてやっていただけで本当にやりたいことではないのかもしれない。

だから何もかも中途半端で夢中になれずふらふらした人間なのかもしれない。

 

小さなころから周りとなじめず、でもそれを面白がってくれる人がいるからこれで良いのだと思っていた。そのまま生きてきた結果がこうだ。

 

マクドナルドで注文できないくらいコミュニケーション能力が低くて、ノックすらまともにできないくらい不器用で、自分が分かっていないことも分からないくらい頭が悪い。人に好かれる何かがあるわけでもないし、時間を忘れるほど熱中できるものもない。見た目がすごく良いわけでもなくセンスもない。すごく優しいわけでもない。注目されるくらい身体能力が高いわけでもない。家事もできない、仕事もできない、友達も二人しかいない。コーヒーも飲めないし魚もきれいに食べられない。ゲームだって下手だし絵もうまくはない。歌だって下手で大きな声も出せない。表情が豊かで演技がうまいわけでもない。字も下手ではないけどすごくうまいわけではない。

 

きっとこの先結婚できるわけがない。25年の人生で一人だけ付き合った人がいるけれども、結局別れて普通の付き合い方がよく分からなかった。

髪の毛ぼさぼさで何も良いところがないフリーター女と付き合って結婚してくれる人がいるわけない。

生きがいになるような仕事に就ける自信もない。

 

自分は誰かに何かを与えられるわけでもないのにどうして存在するんだろう?

なんのためにお金を稼ぐのか分からないと母親に言ったら、

生きていくために必要でしょ

と言われた。

じゃあなんのために生きていくのかな?

 

 

こんなメンヘラみたいなことを世界中の誰もが見れるブログに綴っているけれども結局なんだかんだでこれからも中途半端にだらだら生きていくんだろう。

 

最近、人に言われたことがある。

何が楽しくて生きてるの?

旅行だよ。

と答えた。

旅行って答えてる自分悲しくない?

と言われた。

 

そのときは勝手に人の気持ちを想像して勝手に憐れんでいるその人に対してすごく腹が立って、自分は本当に旅行が生きがいだと思った。

でも冷静に考えると何が楽しくて生きているのか分からない。

 

家族とただ二人の友達以外の人間にとっては私はいてもいなくても変わらない。なのになんで、何が楽しくてこんな泣きながら生きてるんだろう。

私が旅行したって誰かに何かを与えられるわけじゃない。

私が仕事したってしなくたって世の中は何も変わらない。

私と出会えなかったことで人生が変わる人がいるとも思えない。

 

本当に嫌だなあ。

こんな中途半端にたま~にポエマーになる自分も嫌だなあ~。

 

 

 

ココア

寒くて寒くて仕方ない日が続いています。

スーパーでココアを買いました。牛乳で溶けるやつです。

 

寒い~と思いながら家に帰ってすぐに牛乳を温めてココアの粉を入れて混ぜました。

でも、ココアの粉がうまく溶けないんですよね~。

結局、粉がごろごろしたまま飲みました。

私はココアを作るのが苦手なのでございます。

大人になってもおいしいココアを作れない私が、また飲みたいなあと思っている思い出のココアがあります。

 

小学4年生のとき、私をいれて4人組でよく遊んでいました。

冬はそれぞれの家に順番で遊びにいったものです。

誰の家に行くかによって、遊びの内容も違いました。

かくれんぼをする家、勉強をする家、ゲームをする家。

どれも楽しいのですが、冬はさっちゃんちに行くのが楽しみでした。

 

さっちゃんちは両親が共働きで、家に遊びに行っても私たち4人しかいませんでした。

なので、気をつかうことなく思い切り楽しめたのです。

それに加えて、さっちゃんがとても優しい良い子で、とにかく接待してくれたのです。

寒い中、自転車を漕いでピンポンしてさっちゃんちのリビングに上がると、少し待たされるのです。

さっちゃんは、リビングに置いてあるココアの粉が入った大きな袋を台所に持っていって、しばらくするとおまたせ~と言ってマグカップを持ってきてくれます。

 

そのマグカップにはとても温かいココアが入っていて、飲むととにかく体がぽかぽかになって、特別なものを飲んでいる気がしました。

さっちゃんがココアを作っている現場は見たことがないので、どうやって作っていたのかが分かりません。

 

今になって、さっちゃんはどうやってあんなおいしいココアを作っていたのかが気になって気になって仕方ありません。

 

さっちゃんだけでなく、小学校のころの友達とはいっさい連絡を取っていないのですが、ココアを飲むたびに少し会いたくなるのです。

 

 

 

 

今日、家の近くである動物を見ました。

買い物を終えてテチテチ路地を歩いていると、前からおじさんが歩いてきました。

おじさんの左肩のあたりがヒョウ柄っぽくなっていて、おばさんだけじゃなくておじさんもヒョウ柄を身にまとうんだなあ~なんて思っていると、そのヒョウ柄の部分が少しだけ動きました。

びっくり仰天です。

まさかピョン吉のほかに動く服が存在するのか?

もし、存在すればピョン吉の個性が薄れるのですからこれは由々しき事態です。

すれ違う時に、よく見てみました。

 

カエルではありませんでした。フクロウでした。

 

フクロウと認識した瞬間、私はフクロウよりもおじさんのことを凝視してしまいました。

こんな真昼間から住宅街でフクロウを連れて歩くなんて何者なんだ?

おじさんは40代~50代くらいで少し日焼け気味。服装は迷彩のジャケット。そして執事のように構えた左手にはフクロウ。

昔、やんちゃしてた感じの風貌ですがフクロウだけが異様でした。

いったいあのフクロウは何だ?そしてあのおじさんは何者だ?

 

私には知る術がないので、妄想するしかありません。

おじさんはフクロウカフェの店長で、平日で客が少ない時間にフクロウを連れて散歩していたのかもしれない。

おじさんはただのフクロウ好きで、フクロウのために外を歩いていたのかもしれない。

おじさんには幼い娘がいて、娘がフクロウを飼いたいと言ったので買ってあげたが、結局お世話はおじさんがしているのかもしれない。

おじさんはロボット工学者で、精巧なフクロウロボができたので一般人の反応を伺うために街ブラしていたのかもしれない。

 

何はともあれ、犬や猫に比べたら遭遇する頻度の低いと思われるフクロウに出会ったのだから、運は良かったのかもしれません。良かった良かった。

 

 

フクロウ目撃談でいうと、15年以上前にも我が家で話題になったことがあります。

私がまだ小学生のころ、同じく小学生の姉と、父と3人で父の実家の山梨県に来ていました。山梨の祖父祖母の家の裏には、まさしく裏山という感じの山があり、そのときも裏山を車で走っていました。

道はコンクリートで舗装されていて、道路の周りは木が生い茂っています。木が多いので、昼間でも道は暗く少し怖い雰囲気でした。

なんか出てきたらいやだなあ、なんて思っていると姉が騒ぎ始めました。

 

「フクロウいた!!!フクロウいた!!」

 

生い茂る高い木のてっぺんのほうを指さし、木の枝にフクロウが止まっていたと主張し始めたのです。

しかし、時すでに遅し。私と父はフクロウを目にすることができませんでした。

フクロウなんているわけないよと父が言いますが、姉は絶対にフクロウだったと譲りません。私は、こんな普段通る道にフクロウがいたら怖いので、父の言うことを信じることにしました。

 

今でも、その話になると姉は、あれは絶対にフクロウだったと言ってきますが、父はきっとフクロウと袋を見間違えたんだよといつも言っています。

私はしょうもないダジャレが好きなので父の言うことを信じていました。

 

しかし、今日、まさかこんなところでというタイミングでフクロウに出会ってしまったので、もしかしたらあのとき、姉は本当にフクロウを見たのかもしれないと少し思いました。

 

飛び級

飛び級」ってなにやらかっこいい響きですよね~。

みなさんはいくつ「飛び級」したことありますか?

 

私は幼稚園から小学2年生まで水泳を習っていました。

ただ、ずっと同じスイミングスクールに通っていたわけではありません。

幼稚園を卒園したときに引っ越しをしたので、そのタイミングでスイミングスクールも別の場所に通うことになったのです。

私のことを知っている人がいない、まったく知らない土地のスクールです。

 

新しいスイミングスクールは1級から10級までのクラスがありました。

1級が一番レベルの高いクラスで、初心者が10級です。

例えば、7級はバタ足、6級はクロール、5級は背泳ぎ、4級は平泳ぎ、3級はバタフライを習うというように区別されていました。

定期的にテストがあって、合格すると一つ上のクラスに上がる仕組みです。

 

このクラス分けの時点で前のスイミングスクールとはまったく違います。

前のスクールでは、習熟度別にイルカやラッコなどの海の生き物の名前のクラスに分けられていました。

キャップに自分のクラスの動物の絵が描かれたワッペンをつけて、みんなおでこにイルカを住まわせるために努力していたものです。

私もイルカさんを住まわせたかったのですが、卒園に間に合わず夢は持ち越されました。

それなのに、新しいスクールにはイルカ組なんて存在しなかったのですからこの時点で少し気落ちしています。

 

そんな私をさらに気落ちさせたのが最初のクラス分けです。

当時、私は平泳ぎまでは完璧にマスターしていました。ラッコ組なんですから当たり前です。

一緒に通い始めた二つ上の姉は、6級からスタートすることになりました。

経験者であることが伝えられていたのだから当たり前です。

姉はイルカなど超越して上級者用のクラスまで経験していたのだから本来ならばもう少し上の級でも良いくらいです。

 

そして、私が伝えられた級は・・・

「10級から!」

10級?10級って初心者だよね?

 

なんと私は一番下のクラスになってしまったのです。

どうやら私が経験者であることは伝えられていなかったようです。

 

10級の練習スペースに行くと、みんな腕用の浮き輪をつけてふよふよ浮いています。

中には水が怖くて泣いている子もいます。水に顔をつける練習をしている子もいます。

私はイルカを目指しているのに、クラゲのようにふよふよ浮くだけのクラスに来てしまったのです。

小学1年生の私の自尊心が傷つけられてしまいました。

もっとできるのに。なめられてる。

私はコーチにラッコの泳ぎっぷりを見せつけました。

すると、さすがにコーチも気づいたのか、その日のうちに7級に行くように言われました。

7級に移動すると、その日はちょうどテストの日で、私もテストに参加させられました。バタ足で足をつかずに10メートルほど泳ぐテストです。

合格でした。

かくして私は、一日で10級から6級になったのです。

姉も上の級に上がっていたので追いつくことはありませんでした。

その後、4級まではスイスイ上がりました。姉はいつのまにか1級になっていました。

3級になると白いスイミングキャップをつけることになるので、それを目指していたのですが、3級になる前にまた引っ越しをすることになり、またも私の夢は潰えました。

 

結局、私はイルカさんにもなれなかったし、ホワイトキャップマンにもなれませんでした。幼いころから、こうなりたいと思って近いところまでは行っても結局叶えられない人間なのです。

 

そして、私が叶えられない夢を、姉はいつのまにかクリアしています。

しかし、姉が叶えられない夢を、私がいつのまにかクリアしていることもあります。

自分にとっては簡単なことでも、他の誰かにとっては難しいってことがあるというお話でした。

 

途中からことわざの成り立ちみたいな文章になりましたが、ただの私の過去話です。

 

 

ギリギリを攻めるということ

生と死の間を彷徨うのが好きな方っていますよね。

私はそこまではいきませんが、ギリギリの緊張感を味わいたいタイプです。

ただ、ギリギリを攻めるということは、見極めを誤るとすぐ失敗してしまう危険性を秘めているのです。

 

中学生のとき、卓球の試合から帰るときの出来事です。

先輩も後輩も同級生も、男子も女子もみんな一緒に電車で帰っていました。

乗り換えの駅のホームで電車を待っているとき、風が少し強く吹いていました。

ここで私のギリギリの緊張感を味わいたい欲が発動してしまいます。

 

切符を握っていた手を開き、手のひらの上に切符を載せて友達に見せつけました。

「見て!風吹いてるけど飛んでいかない!」

強い風が吹いていても切符が飛んでいかないギリギリを攻めてみたのです。

友達も何を思ったのか

「すごい!」

そうおだてるものですから、私はもっとギリギリを攻めたくなりました。

 

もろに風の影響を受けそうなホームの前方に移動して同じことをしたのです。

そのとき、髪の毛が絡まり、とっさに目を閉じてしまうくらいの強い風が吹きました。

次に目を開けたとき、手のひらに切符はありませんでした。

「あれ?まさか」

血の気が引いて周辺を見渡しますが、もちろん見当たりません。

切符のような軽いものは少し強い風が吹けばすぐに遠くに飛んで行ってしまうもの。

そんなこと、中学生の私にも分かっていたはずです。

しかし、友達におだてられて調子に乗った私は見極めを誤ってしまいました。

 

お母さんにもらったお金で買った切符なのに。怒られる。恥ずかしい。どうしよう。線路にある?お金どうしよう。

 

様々な思いが巡り、涙が出てきました。

自分が調子に乗って犯してしまった失敗ほど恥ずかしいことはありません。

 

結局、卓球部の部長である先輩に付き添ってもらって駅員さんに事情を説明しに行きました。事情を説明するときも、恥ずかしいので詳細は隠します。

「普通に切符持ってたら落としちゃって・・・風で飛んで行っちゃって・・・」

もじもじと話す涙目の私にも駅員さんはマニュアル通りと思われる対応。当たり前です。

「もう一度切符を買ってください」

当たり前の対応ですが、中学生の私は母親にもらった往復の切符代ちょうどしか財布に入れていなかったので切符を買うお金は残っていませんでした。財布に入れるお金もギリギリを攻めていたのです。

年は私とひとつしか違わない先輩がお金を出してくれて切符を買えました。

恥ずかしい気持ち、申し訳ない気持ち、マニュアル通りの対応の駅員さんに対する怒り。様々な感情が入り混じり、涙が止まりません。

 

ギリギリを攻めて賞賛される方もいますが、攻めた結果失敗して沈んでいった人もきっとたくさんいると思います。どちらが良いかなんて結果が出てみないと分かりません。

それだったら私はギリギリを攻めずに後悔するよりは攻めて失敗してのちにネタにするほうを選びます。さすがに生死に関わるギリギリは攻めませんが、人生をかけてギリギリに挑戦するくらいはいいかなと思ったりする今日このごろです。

赤信号

この間、新宿で赤信号を待っていると私以外の人たちはそこに信号が存在しないかのように横断歩道を渡っていました。サラリーマンも、女子高生も、カップルも・・・。

 

話は変わりますが、私は一人旅が趣味で、先日も長野県に行ってきました。

長野駅の周辺は東京と比べると人通りは少ないですが、車はそこそこ多く、もちろん信号や横断歩道も普通にあります。カップルも普通に歩いています。

私の前にもカップルが歩いていました。そしてカップルの前には赤信号の横断歩道がありました。そこで少し( ゚д゚)ハッ!とすることが起こりました。

 

カップルが止まるしぐさも見せずに普通に横断歩道を渡ったのです。

信号は赤。赤は止まれ。

あれれ~~~。

 

一人旅中は、東京の喧噪は忘れたいものです。

しかし、その赤信号カップル事件によって、長野のカップルも新宿のカップルと同じなんだなあと思って少しテンションが下がったのでした。

 

私は赤信号を渡れないタイプの人間です。

赤は止まれなんてみんな分かっているけれども、渡る人はたいへん多いものです。

車が来ないことが明確であれば、渡ってしまうほうが効率は良いし、それが正しいのかもしれません。

絶対に車が来ないのに長い信号を待っているのなんて、思考停止している人間がすることなのかもしれません。

それでも私は赤信号は渡りたくないなあと思うのです。

さいころの私が、赤信号を渡る私を見たらさぞかしガッカリすると思うからです。

 

小学1年生のとき、当時暮らしていた家に祖母が遊びに来ました。

みんなでファミレスに行ってお昼ごはんを食べることになりました。

そのファミレスは家から見えるところにあるのですが、信号があるので少し待つ必要があります。

みんなでファミレスに向かっていると、信号がチカチカし始めました。

赤になる前に渡らなきゃ!

みんな走って横断歩道を渡りました。

でも、私はチカチカは渡っちゃダメだと思っていたので、お父さん、お母さん、おばあちゃん、お姉ちゃんが信号を渡っても足を進めることができませんでした。

結果、私だけが取り残されてしまったのです。

横断歩道の向こう側ではみんなが私がいないことに気づいてザワザワしていました。

私は、自分が正しいことをしたはずなのに置いて行かれてしまったショックで泣いてしまいました。

 

今思うと、チカチカだったら走って渡ってしまえば良かったのにと思いますが、当時から生真面目で自分が正しいと思うこと以外は絶対にやりたくなかったんだろうなあと思います。

今は、チカチカだったら申し訳ない感を出しつつ走って渡ります・・・。

 

そんな生真面目だった小学1年生の私が、もし赤信号を平然と渡る自分を見たらショックで泣いてしまうのはないかと思うのです。

だから、私はどんなにそれが非効率的で無駄なことであっても赤信号は絶対に渡りたくないなあと思っています。

 

ちなみに、みんなで行ったファミレスは今はつぶれてしまってカフェになっていました。そこで食べたパンケーキが甘すぎて気持ち悪くなりました(笑)

甘すぎるパンケーキを食べて気持ち悪そうな顔をしている今の私を見たら、甘いもの大好きな小学1年生の私はショックを受けるかもしれません。

桃鉄

年末年始は実家に帰り、妹と姉と一緒に桃鉄を楽しみました。

 

桃鉄といえば、高校2年生のとき、私が勝手に「桃鉄組」と名付けて様子を見守っていた男子のグループがありました。

 

当時、私の席は後ろからも窓からも二番目で、先生からは見えにくい場所でした。

そして、私を囲むようにして仲の良い男子4人ほどが集まっていて、彼らは授業中にいつも桃鉄の通信をしていたのです。

 

桃鉄のルールはまったく知りませんでしたが、こそこそと盛り上がる男子たちの会話を盗み聞きして、どうやら、すごろくのように日本をめぐってお金を集めるゲームだということが判明しました。

 

私は地図帳を見るのが大好きで、地名を目や耳にするだけでおいしいグルメや気持ちの良い温泉を想像して幸せになることができる人間です。

先生の話を聞く気がなく、いかに時間をつぶすかを考えて授業を受けている私にとって、前後横から聞こえてくる桃鉄ワードは、たいへんありがたいものでした。

 

桃鉄組」が1時間で日本を旅している間に、私も日本各地を観光して楽しんでいたのです。

世界史の授業なんかでは、教科書に世界のどこかの地図が出てくることもあるわけですが、その地図を見てもイメージは沸きません。

やはり、「桃鉄組」の会話を盗み聞きして出る旅が一番魅力的で楽しかったなあ、と思った年始でした。

 

大人になって、あのころ想像した土地へ旅しに行くと、あのころの答え合わせをしているようでとても面白いです。

 

桃鉄組」と直接話したことはほとんどありませんでしたが、過去の私にも今の私にも、きっと未来の私にも良い思いをさせてくれているので私は勝手に彼らに感謝しているのです。

ボンビーには気を付けてこれからも旅していきたいものです。